去日本,上日本邦

每个人都是哲学家:日常生活尽思考

《每个人都是哲学家:日常生活尽思考》

2匹のわんこの散歩が日課になっている。時間もルートも同じなので、途中で出会う人も、ほぼ同じ顔ぶれだ。
我每天必做的事情就是带着两只狗散步,散步的时间和路径总是一样的,路上遇到的也一直是同样的人。
そんな中、気になることがある。いつも袋を持ってない人がいるのだ。会釈する程度で、それほど親しくはないから「あれ?!うんち袋持ってないんすか?」みたいなカジュアルな口調で尋ねることはできない。できないとなると、悶々としてしまう。
在这期间,发生了一件让我在意的事情,有一位总是不拿宠物便袋(日本人带宠物散步时一般会携带袋子,自己将宠物的排泄物收拾干净)的人。因为只是点头之交关系并不那么熟悉,所以也就不能用“咦?你没带着宠物便袋吗?”这种随便的语气询问,可不问的话,自己又很郁闷。
ついこの間の話。いつもお参りに行っている神社の境内に、うんちが点々と落ちているのを見つけた。犬を連れて境内に入り、もよおしたので用を足させ、そのまま帰ってしまったのだろう。
说件之前的事情吧,一直去参拜的神社院子里总是能看到便便的痕迹,想必是主人在神社里遛狗,就让狗狗在那儿便便,最后什么都不管就走了吧。
普通に考えてひどい。よりによって境内で犬に用を足させ、そのまま立ち去ってしまうとは…。筆者は自分のわんこと一緒ではなく、何も持っていなかったので片付けることができず、神社の人も周囲にいなかったので、結局いつもの通りお参りだけして帰ってきてしまった。あそこに落ちてる犬のうんちを片付けなくてごめんなさい、と謝りはしたが。
这么想想的话真是过分,去哪儿不好为什么偏偏让狗狗在神社院内便便,过后也不收拾就那么走了。我因为没领着狗,东西什么都没带着也收拾不了,神社里的人也不在四周,最后也只能像往常一样参拜之后就离开了。参拜时也因为不能清理狗狗的便便而道歉了。
その帰り道。何とも言えない後味の悪さが拭えなかった。落ちているうんちをそのままにしてきてしまった筆者は、それが誰であれ、そういう状態を作った人間とそんなに変わらないんじゃないだろうか。そのままにして帰って来ること以上の何かができたんじゃないか?
回家路上,那种无法言喻的糟糕感受怎么也抹不掉。把便便就那么置之不理的我,岂不是和让狗狗在那里便便的主人没什么两样了吗?比起直接回家一定还有别的我能做的事情吧!

天知地知自己知

どのシーズンだったかは忘れたが、TVドラマ『3年B組金八先生』で「天知る、地知る、己知る」という言葉について語られるシーンがあった。誰もいないところなら何をしてもわからないと思うかもしれないが、自分の行いは天と地、そして誰よりも自分が一番知ってるんだよ、という意味だ。
忘记具体是哪个时期,在《三年B班金八先生》这部剧目中对有“天知地知自己知”这句话做出了解释。其意思就是:或许你觉得在没有人的地方做任何事情都不会被发现,但其实自己的行为一定会被天地知晓,最重要的是,自己是最明白自己曾经做了什么的。
落ちているうんちを拾わなかったことは、おそらく悪事ではないはずだ。そもそもの原因を作ったのは筆者ではない。片付けようという気が一瞬でも芽生えたのは確かだし、神社の人に知らせようと努力もした。でも、そこで諦めてしまった。何かが足りなかった気がしてならない。
没有把掉在院内的便便扔掉应该算不上是恶行,归根结底其根源并不来自于我。我的确在那一瞬间萌发出了要收拾干净的想法,也为了能让神社里的人知道而努力过,然而我还是放弃了,总觉得什么东西不够的样子。

试问,如果个人的事情大家来做的话会怎样

フランスの哲学者ジャン=ポール?サルトルのこの言葉を、筆者の行動に当てはめて考えてみたい。みんながみんな見て見ぬふりをしていたら、いつまで経っても片付かない。だからこそ、誰かが片付けるだろうという気持ちは、犬のうんちをそのままの状態で放置していくメンタリティーとそう変わらないのでは、と感じてしまう。
我想用法国哲学家让-保罗·萨特的这句话解释我前面的行为。如果大家都把看到的东西当做没看到,那无论多久便便都不会被清理掉的。因此我觉得,这种认为总会有人收拾的心理和把狗狗的便便放置不管的行为是没什么区别的。
筆者の悶々とした気持ちを解きほぐすためのヒントは、2000年のハリウッド映画、『ペイフォワード 可能の王国』に隠されている気がする。主人公の男子中学生が、学校の課題で〝世界を変えるための方法?について考え、実践するように言われる。考えに考えた末思いついたのは、自分が誰かに好意を受けたら、それを3人に回していく―ペイフォワード―という方法だった。
解开我心中苦闷的良药大概藏在2000年好莱坞电影《让爱传出去》中。影片讲述了男主角就学校“改变世界的方法”这一课题进行思考和实践的故事,思来想去,如果自己从别人那里获得帮助,那就把这份好意传递给下一个人,即“让爱传下去”。
サルトルの言葉をポジティブな形の行いで表すなら、ペイフォワードがきわめて近いと思うのだ。
萨特的这句话用积极地形式表达出来后最接近的就是让爱传下去了吧。

哲学热

数年前、ハーバード大学哈佛大学の哲学者マイケル·サンデル教授の『これから「正義」の話をしよう』とか、『超訳 ニーチェの言葉』とか、『ヘーゲルを総理大臣に!』といった哲学関連本の発売部数が伸び、ブームめいたものが訪れたことを思い出す。
几年前,哈佛大学哲学家迈克尔·桑德尔教授的《接下来说些正义的话吧》,《尼采言论集》,《把黑格尔作为总理大臣!》等哲学相关书籍的销售量不断增长,迎来了哲学热。
ブームは出版界に限ったものでは決してなく、〝哲学カフェと呼ばれるイベントが日本各地で展開されるようになった。好きなものを飲みながら、特定の話題について話し合い、考えていくものだ。この種のイベントの発祥地はフランスで、1992年12月にフランスの作家/哲学者マルク?ソーテがパリで創立した。テーマとして選ばれるのは、日常生活で誰もがいつでも遭遇しえるものばかりだった。
哲学热潮不仅局限于出版界,最近名为“哲学咖啡”的集会在日本各地展开。在集会中,大家在一起喝着喜欢的东西,对特定的话题进行谈论和思考。这种集会起源于法国,由法国作家/哲学家马克苏特于1992年12月在巴黎创立。集会主题的也都是一些日常生活中人人都会遇到的事情。

哲学可能是最接近生活的学问

日常のひとコマで生まれる、誰もが抱く素朴な疑問。哲学の芽は、そういうところから顔を出すのだろう。哲学は、学問という枠組みだけからとらえると、日々の暮らしから一番遠いものに感じられるかもしれない。でも、あえて日常生活に落とし込んで考えると、実はかなり身近なのだ。
哲学之芽大概就在日常生活的某一个让人抱有疑问的场景中萌生的吧。如果将哲学置于学问这一框架之中的话,总感觉和日常生活相隔甚远,但是,只要将其放入日常生活中想想,就会发现其实哲学就在我们身旁。
哲学のそういう本質をわかりやすく見せてくれるのが『深夜の赤信号は渡ってもいいか? :いま使える哲学スキル』(富増章成 著/さくら舎 刊)だ。著者の富増さんはこう語りかける。
《深夜可以闯红灯吗?:现在就能用的哲学技巧》这本书用简单易懂的方式让我们明白了哲学的本质。(富增章成 著/さくら社 出版)作者富增先生这样说过:

《每个人都是哲学家:日常生活尽思考》

哲学とは「生き方の学問」という思い込みをなくして、「何についても考えることができる技術(スキル)」ととらえればよいのです。
不要将哲学想成“生活方式的学问”,只要将它想成“想要做成某件事情的技巧”就好了。
哲学は、「人生についての説教くさい話」ではないし、生き方を説く学問という性格がすべてではない。もっと身近で単純なことを自分なりに納得するためにあるものなのだ。目次を見てみる。
哲学不是“关于人生的训诫”,也不是一味讲解生存方式的学问。它是在我们身边的,十分简单的,能够让我们自己领会理解的东西。看看下面的例子:
·深夜の赤信号は渡るべきか、待つべきか?
·深夜到底该不该闯红灯?
·タバコを吸うべきか、やめるべきか?
·到底该不该吸烟?
·運命は決まっているのか、自由はないのか?
·运命已经注定了吗?我们没有自由吗?
·人は生まれつきか、育ちで変わるのか?
·性格是天生的还是会后天改变的?
·どんなときもウソをついてはいけないか?
·无论何时都不能说谎吗?
哲学という言葉を聞いて、「人間とは何か」とか、「よく生きるとはどういうことか」とか問われているように感じる人は少なくないはずだ。それはそれで、哲学の一面ではある。でも、全体では決してない。 ならば、哲学的思考を実践するための第一歩としてふさわしいのは、ものごとをひとつの側面だけから見るのではなく、俯瞰的に見渡す感覚を養うということだろう。
提起哲学,经常有人问类似于“人类是什么”,“好好活着到底是什么”这种问题,这倒也是哲学的一部分,但并不是全部。所以,将哲学思维应用于实践的第一步,就是不要只看事物的某一侧面,而是从全面出发,培养出俯瞰事物的能力。
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